「Be happy」についての考察

 

 

人見知りだけど、街を歩いていると、わりと話しかけられる。限られた条件つきだけど。

 

先日、バスで隣に乗り合わせたおじいさんが、古い建造の研究者だった。近所に立つ謎の洋館について都市伝説を教えてくれて、盛り上がった。彼が降りるとき、即座に取り出したメモ帳に番号を書きこんでくれたのもつかの間、バスは理不尽に過ぎ去ろうとした。あえなくそのメモを受け取ることができなかったことも、なんだかさみしいけれど、わらってしまう。

 

春の話になるけれど、関西に出張中、電車で目の前に居合わせたおばあちゃんに乗り換え先を教えたら、冷凍ミカンをもらった(今の時代、まだこんなことがあるのか)。以前にバス停で知り合った病院通いのおばあさんからは、桜の木々の鑑賞の仕方を教わった(元気にしてるかな)。そして別の日、時刻表の見えない老眼のおばあさんは私にブツブツ文句を言ってきた…(なぜ)

 

つまり、相手のほとんどが「公共交通機関系にお困り系ご高齢者」である。(特にバス)

 

日本はご高齢の方が多いし、フツウのことだろうけど、それでも多い気がしないでもない。このきのこ頭の風貌が、人畜無害(あくまで一見)というのが関の山だろう。

 

つい先日もそうだった。やっぱりバス停だ。週に数度、透析に通われているというおばあさんが時刻表の改善点について語りはじめたことをきっかけに、おしゃべりタイムがはじまった。主な話題は3つ。彼女が東京に来た時の印象。いままで一度も風邪をひいたことのないという100歳近いのご主人がご近所から「鉄人」と呼ばれていること。倉敷の大原美術館が好きなこと。

 

こういうご高齢の方との会話は、たのしく、ちょっとした時間旅行にも思う。

 

一つだけ驚いたことがあった。帰り際に「あなた若いんだから。きっと幸せになるわよ! もっと幸せになってね!」と大声で言われたことだ。

 

おばあさんは、特に何も考えず、そのままの意味で言ってくれたのたのだと思うけど、よく言われる「幸せになれ=Be happy」という未来表現は、自分の身体に染み込んでこない言葉であると、しみじみ感じた。

 

なんといいますか。

 

「幸せになれ」というのは、「今幸せじゃない」ということとセットに聞こえるし、「幸せ」という何かが、冷蔵庫みたいに規格のある商品みたいに思えてきたりする。同時におばあさんが言うことで、その世代の人が生き抜いていきた、過ぎ去りし一時代を想像させる意味合いも帯びられてくる。いろんな意味がグラデーションのように混じり合って聞こえた。

 

 

お別れした後、せっかくなので、自分にとっての「幸せ」を考えてみる。

 

「断片」が思い浮かぶ。青々とした葉っぱの一部をカッターで切り取って、プレパラートにのせて、カバーガラスをかけて眺めるみたいに小宇宙的なのだ。瞬間的であるし、きまぐれでもある。というのも、いいなと思った次の瞬間に沈んだり、沈んだ後に飛び上がるくらい調子が良くなったり、「幸せ」と言いたくないほど幸せに浸ることもあるからだ。

 

だから「なる」ものだとは、どうしても体感的にわからなかったんだろう。

 

未来形で語ることはできなくて、後になって感じることも多い。きっと、気づく時期もそのカタチも人によって違うだろうから、実に曖昧なシロモノだと思う。曖昧でありつつ、時がくればありありと感じることができるものだと思う。

 

「今幸せ」と感じるのはすてきなことかもしれない。でも、どこか自分にそう思わせようとするバイアスを感じしてしまうから、めんどくさい人間代表選手である私はしないのだ。恥ずかしがりやであまのじゃくな「シアワセさん」は多分びっくりするから。まっくろくろすけに似て。

 

そんなわけで、普段はそんなこと考えず、今の自分にとって「ちょうどいい水温の場所」を探し求めて、カージナルテトラみたいにゆらゆら泳いでたらいいんじゃないかな。と思った。(雑)

 

泳げること自体が「それ」であることを忘れたくないし。

 

 

さて。先日カフェに行ったときのことです。化粧室に行って、テーブルに戻ってきたときに、わたしのココアのカップに見慣れないネイビーのカンカン帽子がかぶさっておりました。

 

あえて言葉にするなら、こういうことをいうのか、と思いました。

 

 

 

 

by Kei