意識の情報と、感覚の情報

 

今日は、雨が降りましたね。もうすぐ新月です。

 

先週、いつも通りポストを開けてみると、知人の方から一冊の本と入浴剤の小包が届きました。こんな状況ということもあって、しみじみとしたきもちで同封の手紙を広げましたが、そこに綴られていたのは「情報過多にならないように気をつけています」などと、彼女らしいミニマムなくらしの風景。ついシンパシーを感じてしまった。

 

ちょうど私も情報との付き合い方について考えておきたいことがあって、アメリカのコンピューター科学者・カル・ニューポートが去年出した『デジタル・ミニマリスト』(早川書房)をまたまた読み返していたところでした。昨夏に手に入れた一冊。読み返すのは、これで7回目くらいになると思うけど、毎回情報との距離の取りかたとか、記事を書く前の心がまえを整える意味でも、よく参考にしています。

 

この本で推奨されていることは、単に取り入れる情報をミニマムにする一時的なライフハックのことではなくて、テクノロジーとの関わり方に常に自覚的でいようとする心がまえの中によろこびがある事実を知ってもらうことにあるようです。ときたま「30日間のデジタル片づけメソッド」みたいな、わたしにとっては速攻でスルーしたくなるような、ゴリゴリハウツー要素も時に含まれてはいるのですが…(笑)それも異国での捉え方のひとつとして興味深く読み込んでいます。

 

情報の海にどっぷりと浸かりきっている今、カルの哲学を実践に移すのはなかなかハードルの高い試みだと思いますが、改めてオンラインという大海原で漂流しないようにするためには、指針になる目からウロコの心がまえだと思っているし、いつかここらへんをテーマに記事にしたいな、とも思っています。

 

さてさて。こうした常に自覚的にさばいていかなければならない意識上に溢れる「情報」に対して、一方で、積極的に感じていきたい「情報」もあります。

 

昨日、すてきな詩と出合いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また朝が来てぼくは生きていた

夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た

柿の木の裸の枝が風にゆれ

首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを

 

百年前ぼくはここにいなかった

百年後ぼくはここにいないだろう

あたり前の所のようでいて

地上はきっと思いがけない場所なんだ

 

いつだったか子宮の中で

ぼくは小さな小さな卵だった

それから小さな小さな魚になって

それから小さな小さな鳥になって

 

それからやっとぼくは人間になった

十ヶ月を何千億年もかかって生きて

そんなこともぼくら復習しなきゃ

今まで予習ばっかりしすぎたから

 

今朝一滴の水のすきとおった冷たさが

ぼくに人間とは何かを教える

魚たちと鳥たちとそして

ぼくを殺すかもしれないけものとすら

その水をわかちあいたい

 

谷川俊太郎『朝』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷川さんのコスモロジー的な世界が、閉じかけの五感をやさしく、震わしていきました。

 

他のあふれる情報からではけっして得られないものが

たとえば「今朝一滴の水のすきとおった冷たさ」に宿っているかもしれない。

 

そういう世界があること、わたしたちは感覚的によく知っているはずです。

 

 

 

by Kei