ばあちゃんちはなぜあんなにモノが多いのか(1)

photo:ばーちゃんと寿司を作った写真出てきた笑

 

 

 

[モノとの付き合い方考察]

 

ありとあらゆるかたちのステンレス鍋、アルミ鍋、圧力鍋。どでかいジューサーや高機能ミキサー。10個以上はある形もとりどりのヘラやおたま。数え切れないゲスト用の食器類やカトラリー…

 

「おばあちゃん、鍋、多過ぎないか」

「おじいちゃんが次々に買ってきたんじゃからしょうがないよ。けいちゃんはいつもどのくらい使うん?」

「ズボラなものが多いから、ちいさい鍋1、2コで、じゅうぶんだよ…」

「ほお、それは少なすぎるのお」

「…」

 

先日、岡山にある祖母の家に帰ったのですが、相変わらず家の中がーー特にキッチンーーモノだらけで腰を抜かしました。さいきん最小限のモノでゆたかに暮らすことのこころみ(ミニマリズムとかシンプリズムの考え方)の周辺をウロウロ歩き回っていただけに、余計にコントラスト強すぎた…。

 

世代によってまったく異なるモノ持ちの感覚を、お互いどのように認め合えればいいのか、じっくり考える機会になったので、今日感じたことを2回ほどに分けて、綴ってみます。

 

 

学校給食センターに長年勤めていた料理好きの祖母の“サンクチュアリ(聖域)”である台所で、共に夕食を作っていますと、出てくるは出てくるは、あらゆる見たこともない調理器具や食材が…! 私からしたら、即フリマサイト出品組になりそうな、謎の「かきまぜる器具」とか、本格派の中華料理屋しか使わないような「油切り用鍋」とか…!(滝汗)そんなの、いつ使うんだって感じのやつ。

 

ただ、散らかっているわけではないんですよね。

 

「散らかる」に含まれる、モノを大事にしていないニュアンスは、不思議と祖母にはないのです。「散らかる」って、手に入れた際の目的を見失ったモノたちが徐々に手にとれなくなり、ちょっとした罪悪感と共に放置されている状態のことだと(個人的には)思っているのですが、祖母は毎日の片付けは怠らないし、一つひとつのモノにたいする思い入れを語りまくってくれるんですね。

 

そして、これこそがよけいにモノ収集を加速させ、手放しにくくさせているのでありました。

 

結果モノにあたる時間に追われがちになり「時間がない」とぼやき続けることも多くなり…という悪循環を横目に、「もう歳だし、これ以上物理的に使えなることもあるだろうし」と呟くも、祖母は「いつか使うかも」とのこと。希望も、モノと同じように捨てる気持ちはないご様子。シンプルが好きな私のアドバイス、The 糠に釘。

 

そして、器具を眺めては、首を傾げる私に「ばあちゃんの小さい頃は、何もなかったんじゃよ」という時代の差を感じさせるセリフを一言。

 

結局私はモノが少ない方がぜっったい幸せだと思い込んでいるし、祖母はモノに囲まれていることがぜっったい幸せだと思っているんですね。(笑)

 

そんな彼女の背中を見ていると、モノの量=豊かさだと感じるのは、人によっても、時代によってもまったく違うという、諦観にも悟りの気持ちが湧き上がってきました。何事も「ぜっったい」と人に押し付けるのは良くない。気づくの遅いけど。。。笑(こんなやりとりができるのも、よく考えれば、ありがたきことや)

 

アメリカのミニマリズム運動を代表するジョシュア ・ベッカーの『より少ない生き方』に「世代による消費に対する考え方の違いを知っておく」という、おもしろい章があって、世代間で異なるモノに対する考え方の差が時代背景とともにくっきり書かれています。

1928年〜1945年生まれの「サイレント・ジェネレーション」、1981年〜2000年「ミレニアル時代」で、消費に求めるものがたまげるほど違うんですよね。

 

これを読んだら、人の考え方が、自分の自由意志を超えて、時代の風潮によってしっかりと生み出されていくという当たり前のことが再確認できました。

 

消費傾向というのは、その世代が幸福とか便利さをどの様に捉えているのかを顕著に表わすうつし鏡みたいなものなのかもしれませんね。前の世代の人々のモノ持ちの価値観を否定せずに、今ここちよいと思える最適な「手のひらサイズ」を探したいと願うきっかけになりました。上の本と一緒に、これは、また次に紹介します。

 

 

ずっとたのしみにしていたイベントの主催者の方から、中止のおしらせのメールがとどく夜。たしかに残念だけれど、行間からにじみ出る真摯さに、行きたいと思ったのは間違いなかったんだなと、改めて予約当初の動機が温め直されたのでした。

 

自分にできることは、小さくて確か。今日もあなただけの一日を。

 

 

 

by Kei

 

 

コメント