無数の「わたし」と出会うススメ

 

 

表現したいことが変われば、他人から見た自分というのもコロコロ変わるもの。

 

以前、古い友人に別れ際、ボソリと言われて嬉しかったのが「未だにあなたのことよくわからない」と吐き捨てられたことでした。じつは、私も彼女に対して同じことを思っていたのだけれど。

 

この、互いのことがうまく言葉にできない関係は意外と長く続くからフシギです。相手が絶えず変わっていく様子を横から「相変わらずだな」とか「次どんなこと“やらかす”のか」と、突き放したところから(ある意味、好奇の目で)見守っているからかもしれません。

 

絶えず変わっていく自分や他者を認識し合う空気は、植物のように人の手によって日々育てていく種類のものだと、あらためて感じています。

 

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ここからは思い出話。

 

私の学生時代、女子同士の友情関係を維持する方法は、そうした違いの変化を楽しみ合うようなかたちではありませんでした。

 

自分たちのグループ(いわゆる「いつメン」)から一人づつ名前の頭文字をとってグループ名をこしらえたり、同じアーティストに傾倒したり、お揃いのものを携帯するなど、なるべく「同じ」ものをシェアして帰属意識を高めることをたいせつにしているようでした。かれこれ10年前にもなるけれど。

 

イケてる、KY、オタ、隠キャ、陽キャ、メンヘラ、中二、いじられ……と当時わたしたち間では、人の一側面をあたかもその人全体として一方的に定義する言葉がたくさん飛び交ったものです。

 

これらの言い方が正しいかどうかは別として、こうした性質がひとりの内面にないまぜになっているのが健全というのだよ。だなんて、当時の私たちは言の葉にすることもなく。

 

周囲に印象付けられてしまった単一のキャラクターを演じ切らなければならないような風潮も、別にわるいこととして認識すらのぼらなかった。「いつメン」から外れてしまうことに比べたらさほど辛いこととして感じなかっただろうし、はたまたそれが演技であることはとうに知っていた上のことかもしれません。みんな賢くないわけじゃなかったのだから。

 

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互いの立ち回りがしっかりと定まることで、それはそれで青春感は高まるのだろうし、ふつうに楽しかったのかもしれない。

 

さいわい自分の場合は「あんたのこと分からない」と最初から突き放してくれる正直な人が指折りいてくれたことがさいわいして、変人扱いと引き換えに友だちは少ない分、割とこれとは無縁な学生生活を送りました。

 

ただ周りでは、互いの変化を抑制するかたちで関係をつないでいたのは確かで、他のグループの子から少なくない相談を受けていた…そんな自分と他者の間で問いを抱えていた若者たちの、ある初夏の微熱を今更懐かしく思い出しています。

 

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もちろん1つのキャラクターだけを演じる良さもあって「ある一時期」の関係には「あるキャラ」だけを演じ、関係終了と同時にキャラごと葬るやり方だって、人間関係を切り盛りしていく上でのりっぱな処世術のひとつ。

 

ただ人間関係から染み出してきたその癖が、自分の表現の分野までを浸食してしまうことは文字通り表現の「死」…というか、存在意義を失うことを意味してしまうのだと身が引き締まるのでした。

 

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最近取り掛かっているウニ子(エフイチ巻末にある謎ホロスコープサイン漫画)。6号では「没頭している本のキャラにいちいち感情移入し過ぎて、毎回同化する」という相変わらずヘンテコなテーマで描いたことがありました。

 

いったいどなたが面白いと思ってくれるんだろうと、自分でも首を傾げながらペンを走らせていたこともおかしいのですが…やおら描きはじめていました。好きなものとの一体化と離脱を極端に繰り返すことになんら苦痛はないのだけれど、周りはそんな彼女がよく理解できない。私はウニ子ではないけれど、彼女の言いたいことは分からなくもなかった。

 

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先週、久しぶりに放送されていた超歌手・大森靖子さんのラジオでも、大森さんが語っていた曲づくりの背景に何か、付合するものを感じました。

 

「私、結構気分屋さんで、一回歌っちゃったことはもう歌いたくないんですよね。歌っていない感情を歌うのが私の仕事だから、それに最適な音であったりとか、曲づくりをしていかなきゃいけなから。

…なんですけど、大体『こういう曲が好き』ってなって、アーティストって好きになったりするので、次の曲で違うこと歌っていると『なんなん』ってなるんですよね、多分。それって当たり前だと思うんですよ。そこで『付いていけない』気持ちが多分、そりゃあっただろうなっていう…」

 

大森さん自身は、その変化の何がいけないのかが分からない自分と、ベーシックにはちゃんと存在している自分が矛盾なく共存していて「そもそも私自体クリエーターとしての存在意義、モノを作って歌っているっていう自分が一番好きなので『こういう私を知って欲しい』っていう人間ではない…」と補足。

 

「曲を作る時は、それを作る神さまで、歌っている時は曲の奴隷(同ラジオにて)」と、表現を見上げ続けることそのものに、一貫した“らしさ″を感じます……と言ったら、また「私らしさって?」とひょんな返しをもらいそうなほどに、

表現する人にとっては、多彩な自己表現と自己同一性はムジュンしないものであるばかりか、むしろ積極的に壊していく対象であること。また、その一見ズレたように錯覚する地帯にこそ何かが生み出る源泉なのか、と宝のありかを耳打ちされたような気分に。

 

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内田先生の対談記事で見た「成熟することは複雑化」のエピソードも同時に脳裏をかすめます。

 

「僕自身だんだん加齢してきてわかったのは、年をとると人間はだんだん複雑になるということでした。だって、僕の中には、幼児期の自分もいるし、少年期の自分も居るし、中年の自分も居るし、定年を迎えた60歳の自分も居るし、古希を迎えてどうやって死のうか考えている自分も居る。その全員が自分の中にいる。その一人一人が間違えなく僕自身なわけです。だから、複雑なキャラクターにならざるを得ない。成熟するとはそう言うことだと思います」(『しょぼい生活革命』晶文社より)

 

成熟すると言うことは、単純化することではなく、複雑化していくこと。

 

内田先生が自己を表現する際に何度か用いていた「アモルファス」という言葉が気になり調べてみると「結晶化した構造を持たない物質」とのこと。「星雲的な」と言う意味合いで使われていたことが印象的でした。

 

あなたやわたしは未だ掴みどころがなく、キラキラしていて、魅惑的であり続ける。そんな無数に存在するであろう一個人の不思議さをしっくりさせてくれる表現にまた出合いました。

 

 

 

 

 

by Kei